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読書と鑑賞の記録

フェミニズムを断念しないために:『福音と世界』2019年1月号

福音と世界2019年2月号|新教出版社 

福音と世界 2019年 01 月号 [雑誌]

福音と世界 2019年 01 月号 [雑誌]

 

 ジュンク堂難波店で『福音と世界』2019年1月号を買った。特集は「生きるためのフェミニズム」。菊地夏野さん、栗田隆子さん、飯野由里子さん、要友紀子さんの文章を読んだ。どれも私の関心に近く心動かされる内容だった。

とりわけ菊地さんの、「ポストフェミニズムネオリベラリズムーーフェミニズムは終わったのか」は、フェミニストによるフェミニズム内部への鋭い批評として私には読めた。菊地さんはナンシー・フレイザーによる第2波フェミニズム批判を参照しながら、現代日本の状況をネオリベに親和的なポストフェミニズムとして読み解いていく。

これは、フェミニズムを断念しないための、フェミニズム批判だ。素晴らしい文章なので本当はたくさんの人に雑誌を買って全文読んでほしい。ここでは際立って印象的だった2箇所を以下に引用したい。

性暴力に抗して女性たちが立ち上がるというありようは、いまだに女性たちが性をめぐって苦しめられていること、ただセクハラにNOと言うだけでも壁が立ちはだかっていることを見る者に知らしめる。しかしこれを「シスターフッドの再生」として称揚するだけでは、連なる多くの論点を逃してしまうだろう。シスターフッドの称揚は、異性愛の規範化と似たように、現実の女性の姿をぼやかし、関係性の内実を見えなくさせる。フェミニズムが終わっていないことは確かである。だが、その現状は複雑化している。性差別的な現実に目覚めた女性が、女性同士の連帯によって立ち上がり、運動を形成していくという単純な経路をたどるには多くの壁が存在している。(p.6-7)

わたしたちは、自分の依って立つものが何を意味しているのか丁寧に吟味しなければならない。「女性活躍」という言葉はもちろん、「フェミニズム」の語すらも、どのような文脈で使われ、どのような政治性をもっているのか見抜かなければならない。(p.11)

この雑誌を買える書店が少ないのがとても残念。

私自身は最近、フェミニズムの"共感"の論理/現象について、運動の歴史を踏まえながら、ちゃんと考え直してみたい、批判的に捉えてみたいと思っていた。だから、菊地さんの文章に引きつけられたのだと思う。

フェミニズムはその内部においても歴史的に数多くの論争を繰り広げてきた。フェミニズムが一枚岩であったことなどなく、むしろ党派的であったと私は考えている。フェミニストが"シスターフッド"を提唱することがあるとすれば、それは、あまりにも男性中心主義的な社会に対抗するための態度であるかもしれない。あるいは、"共通の経験"を重視し差異に目を瞑るフェミニストの欺瞞であるかもしれない。その両方の面があるかもしれない。

フェミニズム的な何かであるから信用できる、なんてわけがないことを、菊地さんの文章は突きつけているように見える。現在、明らかにフェミニズム的な発信をする人たちの中に、はっきりとトランス嫌悪/排除を表明している人たちがいる。だからこそ私は"共感"の功罪を考えてみたいと漠然と思っている。