at a snail's pace

読書と鑑賞の記録

恋愛がすべてじゃないという恋愛物語:『窮鼠はチーズの夢を見る』『俎上の鯉は二度跳ねる』(少しネタバレあり)

 

 

  私はマンガを読むのが遅く、過去のBLマンガの数々を読むことができていない。このため、名作BLとの呼び声高く、来週にも実写映画の公開を控えている、水城せとな『窮鼠はチーズの夢を見る』&『俎上の鯉は二度跳ねる』(いわゆる「恭一&今ヶ瀬シリーズ」)を今さらながら初めて読んだ。

 この漫画の素晴らしいところは、恋愛は人間の理性を失わせ人生を180度変えてしまうのだ、という恋愛物語の王道的命題を掲げるだけに留まらず、最終的には恋愛だけが人生ではない、ということをも示してくれる点である。それは恭一と今ヶ瀬が30歳前後という年齢設定になっていることと符合しているといえるだろうし、主たる掲載誌が『Nighty Judy』というレディースコミック誌だったことも関係しているかもしれない。

 BLマンガを読む成人女性の多くは、性差別的な社会のなかで生きていくために過酷な日々を送っているのであり、BLマンガは彼女たちに辛い現実をしばし忘れさせてくれる楽園でもある。しかし一方で、普段厳しい現実を生きているだけに、あまりにも現実離れした能天気な甘々恋愛物語ばかりでは白けてしまう側面もあると私は思う。

 本作品シリーズは恋愛を中心に置きながらも、複雑で難しい現実というものを見据えた構成になっている点が特徴的であると私は感じた。お人よしで流されやすいノンケの恭一に対し、ゲイの今ヶ瀬は拘りが強く感情の起伏が激しい(それだけにいっそう魅力的な)人物として描かれており、しばしば異常に興奮して恭一に詰め寄ることもある。それは今ヶ瀬が目の前の甘い恋愛に夢中になりつつ、目の前の恋愛の向こうにある現実を予見してしまうためである。ノンケである恭一との行く末を先んじて摑もうとすることは、今ヶ瀬にとって、未来の絶望を先取りする試みでもある。こうして今ヶ瀬はたびたび感情の雁字搦めに自分を追い込み、幾度にもわたって自ら恭一との関係を断とうとしてしまうのだ。

 こうした状況に一石を投ずるのが、終盤で恭一が放つ言葉だ。「恋愛でじたばたもがくより大切なことが/人生にはいくらでもあるだろ」「お互い/もうそういう年だろ」そして「・・・これからどうする?」。恋愛モノの結部にはあまり似つかわしくないセリフのようにも見えるし、ゲイの今ヶ瀬の恋愛に対する拘りをノンケの恭一が冷たくあしらうというのはなんだか立場の非対称性をただなぞってしまっているような気もする。が、長くて短い人生の物語の一コマとしての恋愛、いつか終わる時が来る「死出の道」としての恋愛という視点の提示は、今ヶ瀬の自縄自縛を少しゆるめる装置として働いていることは確かだろう。本作品シリーズは恋愛を中心に話が展開する物語でありながら、恋愛を通じた恭一と今ヶ瀬の変容を経て、人生は恋愛がすべてではないという結論に達する、ダイナミックな価値転換の物語でもあるように思われる。

祝!ルナベルULDに後発品

 月経困難症治療薬・ルナベルULDの後発品(ジェネリック医薬品)が昨年12月から販売されている。今日薬局で処方されて知った。

 私は4年ほど前からルナベルULDを使用している。私の場合、今までは3割負担でも1シート(1周期・21日分)あたり2,000円以上かかっていたのだが、後発品では約半分の負担で済むようになった。

【参考】
【厚労省】後発品246品目を薬価収載‐トラムセットに23社が参入 : 薬事日報ウェブサイト
女性ホルモン配合剤(NET, EE):ルナベル 該当成分の製品(後発品)&薬価:おくすり110番

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 写真は、上がこれまで私が使用してきた日本新薬の先発品、下が今回処方された沢井製薬の後発品。後発品にはメーカーが複数あり、パッケージはメーカーによって異なると思われる。ちなみに先発品のメーカーはノーベルファーマだが、販売元は複数あり、販売元によってパッケージが異なる。私は日本新薬を使う前は、富士製薬を使っていた。パッケージが違うだけで同じ薬なのだが。たまたま薬局によって仕入れているものが違っただけである。

 私はルナベルULDを使用する前までは、下腹部の激しい痛みと大量出血に毎月悶絶していた。イブやロキソニンなどの内服薬を1日3回使用するだけでは痛みが抑えられず、坐薬を併用していた。PMS月経前症候群)、腰痛、便秘、口内炎などの症状にも苦しんだ。月経とその前後を合わせて、1カ月の3分の1程度は体が思うように動かない状態だった。ルナベルULDを服用してからは非常に楽になり、欠かすことのできない薬になった。それだけに薬の価格の高さは悩ましかった。

 ルナベルにはLDとULDがあり、ULDのほうはエチニルエストラジオールという成分の含有量をLDよりも少なくしたものである。私は少しだけ安価なLDを試してみた時期もあったが、体に合わなかったため、結局ULDを使い続けることになった。今回後発品が出て、負担がずいぶん軽くなったことはとてもうれしい。

フェミニズムを断念しないために:『福音と世界』2019年1月号

福音と世界2019年2月号|新教出版社 

福音と世界 2019年 01 月号 [雑誌]

福音と世界 2019年 01 月号 [雑誌]

 

 ジュンク堂難波店で『福音と世界』2019年1月号を買った。特集は「生きるためのフェミニズム」。菊地夏野さん、栗田隆子さん、飯野由里子さん、要友紀子さんの文章を読んだ。どれも私の関心に近く心動かされる内容だった。

とりわけ菊地さんの、「ポストフェミニズムネオリベラリズムーーフェミニズムは終わったのか」は、フェミニストによるフェミニズム内部への鋭い批評として私には読めた。菊地さんはナンシー・フレイザーによる第2波フェミニズム批判を参照しながら、現代日本の状況をネオリベに親和的なポストフェミニズムとして読み解いていく。

これは、フェミニズムを断念しないための、フェミニズム批判だ。素晴らしい文章なので本当はたくさんの人に雑誌を買って全文読んでほしい。ここでは際立って印象的だった2箇所を以下に引用したい。

性暴力に抗して女性たちが立ち上がるというありようは、いまだに女性たちが性をめぐって苦しめられていること、ただセクハラにNOと言うだけでも壁が立ちはだかっていることを見る者に知らしめる。しかしこれを「シスターフッドの再生」として称揚するだけでは、連なる多くの論点を逃してしまうだろう。シスターフッドの称揚は、異性愛の規範化と似たように、現実の女性の姿をぼやかし、関係性の内実を見えなくさせる。フェミニズムが終わっていないことは確かである。だが、その現状は複雑化している。性差別的な現実に目覚めた女性が、女性同士の連帯によって立ち上がり、運動を形成していくという単純な経路をたどるには多くの壁が存在している。(p.6-7)

わたしたちは、自分の依って立つものが何を意味しているのか丁寧に吟味しなければならない。「女性活躍」という言葉はもちろん、「フェミニズム」の語すらも、どのような文脈で使われ、どのような政治性をもっているのか見抜かなければならない。(p.11)

この雑誌を買える書店が少ないのがとても残念。

私自身は最近、フェミニズムの"共感"の論理/現象について、運動の歴史を踏まえながら、ちゃんと考え直してみたい、批判的に捉えてみたいと思っていた。だから、菊地さんの文章に引きつけられたのだと思う。

フェミニズムはその内部においても歴史的に数多くの論争を繰り広げてきた。フェミニズムが一枚岩であったことなどなく、むしろ党派的であったと私は考えている。フェミニストが"シスターフッド"を提唱することがあるとすれば、それは、あまりにも男性中心主義的な社会に対抗するための態度であるかもしれない。あるいは、"共通の経験"を重視し差異に目を瞑るフェミニストの欺瞞であるかもしれない。その両方の面があるかもしれない。

フェミニズム的な何かであるから信用できる、なんてわけがないことを、菊地さんの文章は突きつけているように見える。現在、明らかにフェミニズム的な発信をする人たちの中に、はっきりとトランス嫌悪/排除を表明している人たちがいる。だからこそ私は"共感"の功罪を考えてみたいと漠然と思っている。

母親の自立に疑問:映画『テルマ』(ネタバレ)

 私はホラーもサイコも少し苦手というか、観ている時はよくても後になって寝られなくなったり悪夢を見たりするので避けることが多いのだが、この作品は評判が高そうだし面白そうだしでどうしても観たくなり観た。結果、観てよかったと思う。個人的にはそんなに怖くないと思うし、ここから先はネタバレになるが、結末はあまり悲劇的でも破滅的でもなく、むしろ少女が抑圧から解放され自由を獲得し自立する物語として解釈できるだろう。アナ雪へのアンサー映画だとする説もあるようだが納得で、「エルサは共同体に帰順などせずに、氷の城で超能力を思う存分発揮し独り楽しく暮らせばよかったのに」派の私にとって『テルマ』終盤の父殺しはフィクションである以上当然の展開と感じられた。また、最後のアンニャを迎える際のテルマの表情はちょっと狂気を感じるほど*1自信に満ち溢れており、私の目には超ファビュラスでクィアな魔女かつ世界を意のままに操る女王様のように魅力的に映った。

 テルマのような超能力を持つ人物が世界でただ独りという設定ではないのも面白い点だ。彼女の祖母もまたかつてその能力ゆえにテルマの父トロンに虐待され、テルマが訪ねた時点では自分の意思を一切表明せず相手の話にもほとんど反応しない寝たきりの老女として登場している。また、テルマが医師からの「心因性非癲癇症」という診断を受けてその名称をネットで検索した結果の中に、具体的な年代はよくわからないけれどもとにかく身を捩じらせ苦痛に悶える人々を描いた前時代的な絵画イメージがいくつか散見されたことからも、この映画は「狂人」なるものの歴史性に意識的であるように思われる。特に祖母もテルマもトロンに自由を奪われてきたことを考えると、「魔女」とか「狂女」とか「ヒステリー」とかいう言葉が纏っている、ジェンダー化された狂気の歴史を踏まえていることは明らかだと思うし、さらに言うと女性同性愛者が男性同性愛者とは異なる種類のスティグマを押し付けられてきた歴史も念頭に置かれていると思うのだが、ちょっと「狂女」の歴史にかんする私の知識が足りないのでこれ以上のことは上手く言えない。

 少なくともテルマは父殺しによって自由を得た。祖母については、彼女自身の状況は変わらないだろうから救われないが、テルマの父殺しは観念的には祖母の無念を背負った報復であるとみることはできるかもしれない。何しろ彼女から自由を奪ったのもトロンなのだから。ではテルマの母ウンニはどうなのだろう。

 この作品の中でウンニはどうしようもないほど悲惨な立場に置かれている。

 ウンニは夫や娘に依存的で、情緒がやや不安定な女性として描かれている。また身体障害があり、車椅子を使用している。自分の娘に息子を殺されたショックで飛び降り自殺を図った際におそらく重傷を負ったであろうことが推測される場面がある。そして終盤のテルマによる父殺しの後、かつて息子の命を奪い、今度は夫を殺したのと同じ娘の力によって、ウンニは突然歩行できるようになってしまうのである。

 こんなに勿体ぶって説明するのが変なくらい短くて取って付けたような(と私は思った)場面なのだが、この歩行シーンに私はかなり当惑してしまった。いきなり歩けるようになった自分に驚き戸惑うウンニと、母を置いて都会の愛する人のもとに颯爽と戻っていくテルマは対照的である。つまり他者によって自立を強制される者と、自ら自由を獲得した者が対比され、ウンニの「解放」は本人の望まない形で突如強制的に実現させられているように私には見えるのだ。私は映画『アルプスの少女ハイジ』でクララが立つシーンに感動する感覚が理解できないし、ハイジは強引で乱暴な子だと思っているのだが、そもそも、自分の脚で歩かない/歩けないことを依存や抑圧と結び付け、歩けるようになることが自立とか解放であるとかいうようなことを想起させるような描写は、確かによくある表現なのだけれども、未だに通用しているのはちょっとどうかと思う。

 私はちょっとこのウンニの最後の扱いが雑に思えてしまい、後味の悪い鑑賞体験となってしまった。

 

*2020/5/11 タイトルと最後の段落の文章を変更しました。最後の段落についてはもともと書いていた内容をがあまりにも過激で言葉足らずな主張を書いてしまっていたため、大幅に変更しています。

*1:個人的には、この最後まで狂ってるみたいなのは本当に素晴らしいと思う。

ブログテーマとブログ名、各記事タイトルを変更しました

 ブログ開設時にピンとくるブログテーマが見つけられず、とりあえずシンプルなデザインのものを使用してそのまま変えずにいたのですが、久しぶりにテーマストアを覗いてみたところすごくかわいいゾウさんの壁紙を見つけ一目惚れしたのでデザインを一新しました。もともと使っていたゾウさんのアイコンも活かせてうれしい。スマホ表示もこちらのテーマのほうが断然見やすいので、しばらくはこのテーマを使用したいと思います。

 それとかなり適当に仮で付けた「読書と整理」というブログ名はいい加減やめようと思って、まあ私はのろいけどのろいなりにやって行こうみたいな名前に変えました。また、多くの記事が本や展覧会などの感想であるにもかかわらずそのことがよくわからない記事タイトルばかりだったので、書名や展覧会の名称等をタイトルにできるだけ入れることにしました。

受容史研究と一愛好家:『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書』

 

シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書

シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書

 

 私は美術展に行くのが趣味で、特に近現代美術の展覧会に行っては展示の構成や解説文の内容、展覧会の宣伝方法やマーケティングなどについてあれこれ考えるのが好きだ。しかし私は学芸員でも研究職でもなく、芸術的な創作活動も行ってはいない、ただの一愛好家にすぎない。私自身が芸術の消費者でしかなく作り手になれかったことを口惜しく思う一方で、歴史記述において、作り手にはなりえなかった愛好家たちの存在がどのように描かれてきたのか気になるようになった。そしてフェミニズム批評・美術史に触れる中で、一部の女性が優れた作り手だったことを認めつつ多くの女性たちが構造的に単なる消費者に留まざるを得なかったとするような見方は、「芸術とは何か」の定義や芸術をめぐる制度設計が権力ある男性たちに専有されてきたことを暴く一方で、消費者としての女性たちの経験に対しては無関心であるかもしれないと感じるようになり、芸術の受容史に関心を抱くようになった。*1

 だからこの本の序論のタイトル「わたしたちが存在していた証拠を探して」を見たときには心躍るような気持ちになり、読み進めながら嬉しくて涙ぐみそうになるところもあった。この本では作家や批評家、書籍商などとして著名な女性たちの業績だけでなく、無名の女性たちの楽しみもまたシェイクスピア劇の正典化に貢献したことが指摘されている。下記のように、本書には無名の女性たちの痕跡を発見していく物語としても楽しめるような記述がある。

 メアリ・リーヴァーはシャーロット・ラムジー・レノックスに比べてまったく無名ながら、初期のシェイクスピア研究に足跡を残した女性だ。二〇一一年に筆者がニュージーランドオークランド市立図書館で調査を行なった際に偶然、所蔵されているシェイクスピアのサード・フォリオから手紙の写しが見つかり、そこから女性であるリーヴァーが初期のシェイクスピア作品集の編集に関わっていたことがわかった。リーヴァー関連の史料との出会いは、本書の執筆のために行なった調査のなかで最も重要な出来事であり、予想だにしないところで起こった。(p.174)

 他方で本書はシェイクスピア劇の正典化がナショナリズムと切り離すことのできない動きであった点にも触れている。例えば『女性の権利の擁護論』の著者ジュディス・ドレイクについては、古典語の教育を受けられない女性はその分優れた英語の使い手になれると考えていたこと、俗語である英語に価値を見出し国語として尊重するべきと主張したことなど、女子教育や英語の重視という観点からシェイクスピアを評価していた点を挙げている(p.143-152)。

 また、シェイクスピア・ジュビリー祭でのスピーチで当時のスターであるデイヴィッド・ギャリックが「ご婦人方よ、シェイクスピアを舞台に取り戻してくださったのはあなた方でいらっしゃいました!」(p.201)と女性客への感謝の意を表し女性パトロンの支持を獲得しようとすると同時に、ヴェネツィアのデズデモーナを引き合いに出してイングランド女性を称賛するというナショナリスト的な発言をしていることについても言及している(p.219-220)。*2

 本書は書誌学の専門家が膨大な史料を元に行なった研究成果でありながら、広い読者に開かれた読み物であると感じた。*3マイクロフィルムや電子複写を除いても、ファースト・フォリオだけで三十冊以上を実際に手にして確認したので、これだけで総額一五〇億円程の人類の財宝を素手で触ったことになる。」(p.58-59)などと史料価値を現金換算する発想は身近に感じられるし、前に触れたメアリ・リーヴァー関連の史料発見のドラマティックな場面は読者の心を引き付けるような書きぶりだ。他にも非常にサービス精神旺盛な記述が随所に見受けられる。シェイクスピアを無名の女性たちが楽しんだように、研究の成果もまた研究者だけのものではない。そのことを本書は体現しようとしていると思う。

 

*2018/10/27追記*
タイトルに書名を追加しました。

*1:私自身が作り手になれなかった原因のすべてがジェンダー構造にあるとは思っていない。私は自分のコンプレックスを探求心に変えて読書したり批評したりしているが、自分自身に対する答えを出すのはとても難しい。

*2:少し話が飛躍するが、ナショナリズムフェミニズムの関係の歴史はとても厄介で語りにくいと感じてしまう。女性たちがシェイクスピアの正典化、国民詩人の誕生に貢献してきたことについて、その足跡のひとつひとつに感動しつつも、国民や正典という概念がもつ排他的な側面は否めない。この語りにくい関係について書くのは、まだ私にとっては困難なことだ。

*3:例えば『学術書を書く』という学術書の書き方についての実践的指南書は、「多少専門の離れた、しかし広くは関係する分野の研究者・学生にとって魅力的な本」(p.13)を書く手法を提示するというが、本書『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』はそれよりも明らかに広範な読者を想定しているようだ。 

学術書を書く

学術書を書く

 

作品を展示する場所:「サム・フランシスの色彩」展

www.asahibeer-oyamazaki.com

 アサヒビール大山崎山荘美術館の企画展「サム・フランシスの色彩」を観に行ったのだが、少し残念な展示で失望してしまった。

 サム・フランシス(1923-1994)はアメリカの抽象表現主義の系統に位置づけられる画家で、作品の特徴を物凄く雑に表現すると余白の多いジャクソン・ポロックという感じである*1。一般に20世紀半ば以降の抽象表現主義の興隆により現代美術の中心地はパリからニューヨークへ移ったとされ、同時にアメリカのマーケットの趣向に合わせて現代美術の作品のサイズは巨大化してきたと言われており、戦後アメリカの著名画家たちの作品は皆とにかくデカい。その巨大な抽象絵画を、日本の個人山荘を整備してできた美術館でどのように飾るのかが本展の焦点だったと思うのだが、正直なところあまりうまくいっていない気がする。

 本展ではサム・フランシスの作品は9点あり、そのうちサイズの大きな5点は本館(旧加賀家山荘部分)ではなく、平成に入ってから建てられた山手館と地中館に展示されている。この山手館と地中館は安藤忠雄が設計した打放しコンクリートの建築で、サイズの大きい現代美術作品を飾るために作られた部屋といっても過言ではないだろう。ただやはり、この美術館のメインは本館の旧山荘部分なので、本館よりも大きくするわけにはいかなかったようで、結果的に山手館と地中館は中途半端な大きさになってしまっているように思う。特に山手館は、抽象表現主義の絵筆が暴れ回った軌跡のような作品が複数配置された状態で見ると、どうしても狭苦しく感じてしまう*2

 地中館の展示も苦しさを感じる。ここではサム・フランシスの『無題 5枚組』とクロード・モネの『睡蓮』が向かい合わせで配置されているのだが、『睡蓮』の額装表面のガラスに、向かいの『無題 5枚組』が反射して映り込んでしまっていた。抽象表現主義の荒々しい筆致が『睡蓮』の池に映っているのは少しも趣深い展示ではないので、配置と照明のミスだと思う。そもそも、モネとアクション・ペインティングを並べて展示すること自体、かなり挑戦的な試みなので、やるなら工夫が必要だったはずだ。

 そして私が最も厳しいと感じたのは、本館での比較的小さいサム・フランシス作品の展示だ。本館には4点あったが、いずれも何かぬくもりある木製のショーケースの中に展示してあったのである。そのうちの1点『The Five Continents in Summertime』に至っては、ショーケースのガラス表面が濁っていて傷があり、さらに中の作品もなぜか表面がガラスで額装されていた。また本館の照明は温かみのある電球色でほぼ統一されているのだが、サム・フランシス作品の真っ白な余白を生かすには、昼白色程度のやや青みがかった照明のほうが適していると感じた。

 今回のサム・フランシスの展示は奇を衒ったというよりも、限られたスペースに無理に作品を押し込めてしまった結果であるように感じる。本館の別フロアにあった焼き物の展示はとてもよかったので、作品は展示する場所を選ぶのだと改めて思った。

 

*2018/10/27追記*
タイトルに展覧会の名称を追加しました。

*1:ただジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングの特徴の一つとして執拗なほどに画面を絵具で覆い尽くすこと(オールオーバー)が挙げられるので、余白ができたらジャクソン・ポロックではなくなる。この点では、サム・フランシスとジャクソン・ポロックは全くの別物である。

*2:例えばDIC川村記念美術館のように広大な敷地面積を持つ美術館の場合、巨大な現代美術作品を展示しても空間の有限性を感じさせない。今になって思えば、私は美術館という作品を入れるハコが透明であるかのように錯覚して、フランク・ステラの作品を鑑賞していたようだ。