あるフェミニストの実践

 

ジェンダー写真論 1991-2017

ジェンダー写真論 1991-2017

 

  笠原美智子は私が尊敬するフェミニストのひとりだ。笠原が「アーティストにとって生きやすいとはとても言えないこの国」(p.10)と表現する日本は、同時に、フェミニスト女性にとって(アートの中でもとりわけ性差別的な分野である)写真を専門として学芸員を務めていくことが非常に困難な場所でもあったはずである。笠原が1991年に企画した女性セルフ・ポートレイト展は日本の美術館で初めてフェミニズムの視点を取り入れた展覧会となった。その後も東京都写真美術館を定年退職した昨年度までの約30年間、フェミニズムジェンダーの視点に基づく美術展を企画し続けてきた。

 2018年2月に刊行された笠原の著書『ジェンダー写真論 1991-2017』(以下、『ジェンダー写真論』)のカバー写真は、インドの写真家ダヤニータ・シンの大学進学に際して、その母であるノニー・シンが撮影したものである。ダヤニータ・シン(以下、ダヤニータ)は笠原が昨年度企画した「ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館」展で取り上げた作家で、笠原とほぼ同世代の女性だ。『ジェンダー写真論』では、ダヤニータの生い立ち、国立デザイン大学やニューヨークの国際写真センターでの学び、欧米雑誌が求めるステレオタイプのインドを撮るフォトジャーナリストから、自身が属する富裕層やミドル・クラスとの親密な関係をテーマとするアーティストへと転身していく過程、近年の美術館やマーケットというシステムに対抗する制作姿勢などが記されている。

 笠原は(敬意と親しみを込めて)ダヤニータはやっかいである、という。その一例が、ダヤニータ自身が作品の展示替えを行う「美術館」のシリーズだ。 

〈ファイル・ミュージアム〉はチーク材で作られた高さ一八九センチ、幅一〇九センチの手作りの折りたたみ式ポータブル構造物である。その中には一四二点もの額装された作品が入っていて、通常わたしたちが美術館で鑑賞するように、展示室ならぬ「美術館」の周りを巡って、最大で四〇点の作品を見ることができる。展示作品は縦に五点配置され、横は一列か三列か七列の組み合わせになっているので、一点一点をじっくりと鑑賞するのと同時に、隣や前後の作品が干渉し、縦に横にとシークエンスとして写真を観ることになる。展示替えもキュレーターであるダヤニータによって一四二点の収蔵品の中から不定期に行われる。収蔵作品があり、キュレーターがいて、展示替えが行われる、美術館として完結し機能しているのである。

(中略)

ダヤニータは二〇一六年までに十以上の「美術館」を作り、全体を「インドの大きな家の美術館(Museum Bhavan)」と名付けた。〈ファイル・ミュージアム〉、〈ミュージアム・オブ・チャンス〉、〈リトル・レディーズ・ミュージアム― 一九六一年から現在まで〉、〈ミュージアム・オブ・フォトグラフィー〉、〈ミュージアム・オブ・エンブレイス〉、〈ミュージアム・オブ・マシーン〉、〈ミュージアム・オブ・メン〉、〈ミュージアム・オブ・ファーニチャー〉、〈ミュージアム・オブ・シェディング〉で、〈ミュージアム・オブ・ファーニチャー〉からは壁面に展示できる〈陳列棚のミュージアム〉と〈印刷機のミュージアム〉という二つの小さな美術館が派生した。また他に、〈オフィス・ミュージアム〉、〈コーチ・ピラー〉、〈ミュージアム・オブ・インダストリアル・キッチン〉もある。(p.258-259)

 【cf. Museum Bhavan – Dayanita Singh

 通常、美術館で展覧会を行う際には、個展であっても開催数カ月前までには展示作品を決めておかないといけないらしい。おそらく予算や広報の都合で固定しなければならないのだろう。しかしダヤニータは会期中であっても、作品を途中で入れ替えて、既存の制度に抵抗するのである。

 ダヤニータはアーティストとして比較的に若い頃から評価されていた。しかし、それを可能にしたシステム――ギャラリーでの展示・販売活動から、美術館でのグループ展、国際展等への参加を経て最終的に美術館で個展を開催するという一流アーティストの辿るコース、あるいは、作品が富裕層により高額で取引されるアート・マーケットのあり方――にも正面から向き合う。「美術館」のシリーズは現在の美術館やマーケットというシステムに対し一石を投じる取り組みのひとつだ。またダヤニータはかつて、小さな写真集を手紙のように贈るというコンセプトの作品(『セント・ア・レター』)を発表していたし、近年では写真集をスーツケースに入れて世界中で売り歩いたり(〈スーツケース・ミュージアム〉)もしている。 

ダヤニータが使う、ミュージアムやキュレーター、収蔵庫などの言葉が隠喩かリアルかと問うアヴィーク・センの質問に対してダヤニータは以下のように応えている。「わたしは自分が生きている現役のアーティストだと主張したい。私を現代美術家だというなら、それは死んではいないということ。美術館やギャラリーと仕事をするたびに、物事を決めるのはキュレーターで、ここにいるわたしは死んでるのかと思うことがある。たとえ私が判断を下すことができても、展覧会の会期中、絶えず作品を変え続けることはできない。もちろん会場が離れていて物理的にそれができないことはあるけれど」。現役のキュレーターのわたしとしては反論もあるし耳の痛いことでもある。ダヤニータが一筋縄ではいかず優れているのは、美術館の現状に対して不満を募らせて単に我が儘を言って心優しきキュレーターを困らせるのではなく、「変化し続けること」をコンセプトにして作品を創り上げてキュレーターに認めさせてしまうことである。結果、ダヤニータは堂々と会期中に作品を入れ替え、付け加える。それに対してキュレーターは、基本的に作品至上主義だからこうなると手も足も出ない。優れた現代写真や現代美術はすべからく現代の批評や批判を含むものであるから、かくして美術館批判を内包する作品が、その批判を受けている当のキュレーターや美術館によって歓迎されて受け入れられ、美術館で展示されるという、かくも現代美術に相応しい状況が展開されることになる。

 ダヤニータ・シンは厄介である。しかしコンテンポラリー・アーティストにとってそれは最高の評価だろう。(p.268-269)

 私はアート業界の内部事情はよく知らないが、物議を醸したり騒動になったりして予定されていた美術作品の展示が取りやめになったというニュースを目にしたことはある。学芸員の役割はあくまで自身の専門性と意志と責任によって来場者に作品を届けることであり、美術館での展覧会はどちらかというとアーティストではなく学芸員の仕事の成果なのだろう。その前提に立ってダヤニータは従来の美術館やキュレーター(学芸員)を批判しているわけだが、「我が儘を言って」展示自体が中止となってしまっては本末転倒である。既存のシステムの中で抵抗するというダヤニータの手法に対する笠原の賛辞には、実際に作品を届ける責務を担う学芸員としての経験の重みを感じる。

 『ジェンダー写真論』に収められている文章の多く(すべてではない)は、東京都写真美術館での展覧会図録に笠原が寄せたテキストに加筆修正を施したものだ。本書の最後に配置された荒木経惟評「囚われの荒木」もそのひとつで、「荒木経惟 センチメンタルな旅 一九七一ー二〇一七ー」展に寄せたものを基にしている。

 笠原が約30年間の写真美術のキャリアを持ち、荒木とはおそらく現実の業界内での人間関係があるなかで、次のように書き切る姿勢に、私は息を呑んでしまう。

[引用者注:「荒木さんの雑誌を創ろう」という編集者、末井昭と組んだ『写真時代』について]誌面からは、面白ければなんでも良いというホモソーシャルで「アングラ」な熱が伝わってくる。しかしそもそも異性愛男性の劣情を刺激するための雑誌である。当然といえば当然とはいえ、当時の最も過激な風俗を生々しく伝えてはいても、ヌード写真としての目新しさはなく、旧態依然の男の性幻想を満載している。女性の身体を侵犯し断片化し商品とするフェティッシュな視線によって、一方的に男性の性的欲望に服従し奉仕し、最後には快楽に支配される、男にとっての都合の良い幻想の女性像である。女性崇拝と女性嫌悪は両立する。(p.406)

 

〈センチメンタルな旅〉は陽子の死を経て現在までも続く、一組の男と女が綴った写真史に類い希な写真詩である。そこには全身を写真に捧げて生と性と死を描く荒木の写真家としての価値が凝縮されている。多くの論者が荒木経惟を「エロスとタナトス」の作家と称賛する。たしかに彼の作品には、たとえ都市や花などを写していたとしてもそこに色濃く性と死の匂いが立ちこめている。しかし荒木の写真に表現される「エロスとタナトス」はあくまで「荒木」のものであり、そこに表現されるのは、「日本の」「昭和の」「男の」「異性愛の」と、幾重にも限定された「エロスとタナトス」として理解しなければならない。荒木の私写真をとおして、良くも悪くも、昭和日本の男の女性観や死生観の一端が垣間見える。(p.407)

 荒木の写真に惹かれるのは「昭和日本の男」だけでない、とか、女性でも「昭和日本の男」と地続きの感性を持っていることはある、などと反論をすることは可能だろうか。性と欲望と表象の関係について私はシンプルな答えを持ち合わせていない。ただ一方で、荒木の写真が、70年代~80年代の作り手も消費者も男性からなる出版文化(例えば『写真時代』『週刊大衆』等の雑誌や量産される写真集)において確立され、90年代以降「それがそのまま美術館に持ち込まれた」(p.403)ことを踏まえるならば、荒木の写真が少しも普遍的でないことは明らかである。

 そして荒木が活動してきた約半世紀の間、日本ではどんなことが起きていたか。「便所からの解放」を唱えた70年代前半のウーマン・リブを発端に、女性運動は性別役割分業や既存の女性表象のあり方に異議を唱えてきたし、アカデミアや行政においてもフェミニズムの興隆があり、その一成果としての法整備を契機とする女性の社会進出が徐々に促されてきた。こうした一見すると大きな変化の流れの中でも、荒木の写真は商業媒体で多くの消費者に支えられ、近年は芸術作品としても崇められながら、搾取を再生産してきた。笠原があとがきに記す、「日本社会の価値観は、わたしが仕事を始めてからこの三〇年弱の間、根本的にはちっとも変っていない」(p.411)という言葉は、荒木の長きにわたった名声と、裏表の関係にある。

 そして、私がもう一度強調したいのは、笠原がおそらく業界の狭い人間関係の中で、おそらく荒木のこれまでの仕事と人柄をよく知ったうえで、荒木に酷評を突き付けているという点である。それは私には信頼関係に基づくフェミニズムの実践であるように思われる。笠原は本書の別の箇所で、フェミニズムについて次のように言っている。

 ある人がかつてわたしに、フェミニズムとは究極的には「愛」なのではないかと語ってくれたことがある。いかに他者に寄り添って、他者についての想像力を及ぼすことができるのか。自分が今まで依って立ってきた考えや思いを一度、根本的に疑ってみて、自分のパースペクティヴとは相反する側の存在を認め、そこからもう一度考えや思いをいかに再構成することができるか。誰を中心にすることもなく誰を周縁にはじきだすこともなく、それぞれの多様さ曖昧さを引き受けながらいかに理解し合えるか。フェミニズムとは究極的にはそうした高度な愛の行為なのではないかというのである。(p.230)

 

 フェミニズムジェンダーも男と女の対立概念ではない。それは共生の思想であり、あらゆるセクシュアリティ、人種、民族、年齢、階級の人々が、お互いとお互いがより良く共に在るための、お互いがお互いをより理解するための、お互いがお互いをより愛するための、常に現在進行形の、たゆまぬプロセス上にある行為なのではないかと思う。(p.231)

 相手を知っているからこその諫言などというのは、甘い発想だろうか。しかし私自身は、相手に伝わるという信頼関係の手応えなしに前進することは想像できないし、また同時に信頼関係のある相手の不正義を問いただすしんどさ(冷や汗、声の震え、終わった後の極度の疲労感)は経験がある。

 「その愛すべきキャラクターと繊細で誠実な人柄、サービス精神旺盛なパフォーマンス、あまりにてらいなく、自分の弱さ、情けなさ、寂しさなど、こちらが心配になってしまうほど、おおっぴらに晒す姿勢に、日本の男のステレオタイプを見ることは困難である。」(p.406-407)と書いたその手で、「しかし荒木が描く「女」にはまぎれもなく、女性差別的でミソジニックな、ある年代以上の日本の男の典型的な視線が存在する。」(p.407)と糾弾することの困難さは、フェミニズムの実践の苦しみでもある。