『共依存の倫理』を読んで

 

共依存の倫理―必要とされることを渇望する人びと―

共依存の倫理―必要とされることを渇望する人びと―

 

  副題や帯の抒情的な言葉に惹かれて読み始めたのだが、私にとって精神分析家たちやドゥルーズの思想は手に負えないほど難解で、いつも以上に自分の勉強不足が歯痒い読書となった。それでも知らないことに出会うのはとても興奮するし、全部は理解できていないけれど、読書の痕跡を何かしら留めておきたくなった。

 本書は共依存をめぐる言説史を整理するとともに、既存の回復理論に疑義を呈するという趣旨の研究書である。当初はアルコール依存症の臨床現場で使用されていた「共依存」概念が他の依存症やDV、さらには患者と援助支援者の関係等の領域へと拡張してきたこと、そして、共依存関係にある相手との別離を望まず、あるべき自己や関係性を指し示すような回復論を拒否する共依存者が存在することへの着目は重要であると思う。また、現在は共依存の病理性における神経症的な意味合いが薄れてきており、共依存の概念拡張とともにその病理性が曖昧になってきているにもかかわらず、「病気を認めないことが病気であるというレトリック」(p.247)によって否応なしに病理化されてしまうという指摘は鋭いと思う。

 本書の中でも特に、「第4章 共依存フェミニズム」で言及されているフェミニスト心理学の考え方には救われるような思いがした。第2波フェミニズム以来「個人的なことは政治的なことである」というスローガンがフェミニストによる運動を前進させ、時代を切り開いてきたことは確かだ。第4章の第1節では「ラディカルフェミニストたちは、共依存概念の普及をフェミニズムに対するバックラッシュの一環として捉えなおした」(p.120)と説明されているが、これもまた(個人の病理化と治療によってではなく)社会構造の変革によってこそ問題解決が可能になるというラディカルフェミニズムの見方を示しているといえるだろう。

 女性運動・フェミニズムの考えに触れたことで、私は女性たちがあらゆる場面に蔓延る男性中心主義に抗議してきた歴史を学び、社会構造に目を向けることの必要性を知った。その一方で、その抑圧的な構造においてすでに生み出されてしまったものはどうしたらよいのか、という疑問は私の中でずっと燻っていた。家父長制の下に生まれ育ってきてしまったがゆえに身に付いた(のかもしれない)自分の特性――愛想よく振る舞うこと、断るのが苦手なこと――や、ジェンダー規範を内面化したがゆえに選択してきた(のかもしれない)道のり――文学部ばかり受験したこと、アシスタント職に就いたこと――を否定し乗り越えようとすることは、私にとってそんなに簡単なこととは思えなかった。というより、苦痛だった。 

 第4章の第2節で紹介されているのは、女性としての経験を重視するフェミニスト心理学による共依存批判である。「女性としての経験」「女性性の肯定」などというのは本質主義的で保守的な響きを持つように思えて私は最初警戒してしまったが、読み進めていくうちに次第にその考え方に惹きつけられ、心のわだかまりがときほぐれるような気がした。

 例えばクレスタンとベプコは、人間関係の中で女性が背負ってきた役割を病理とみなして否定するような共依存概念に異議を唱えている、ということが紹介されている。

 クレスタンとベプコ(J. Krestan & C. Bepko)は、共依存という言葉は、「苦痛というものに名前を付け、その苦痛について言及するための試みを表す言葉であったにもかかわらず」、共依存者を「病人として定義づけるための神話へと変質してしまった」と批判する。共依存の定義の中心は、明らかに自己同一性の喪失であり、その喪失は他者との人間関係に気を取られすぎた結果に生じる。共依存概念は、このような「自己喪失」の状態を病理と捉え、他の人間からの影響を受けることなく、痛みのない人間関係の中で生きることを目標とする。したがって、「共依存から回復するということは、相手に心を奪われることなくして、人間関係に完全に満足するという、逆説的な偉業を奇術のように成し遂げられること」として語られている。(p.123)

 また、発達心理学者キャロル・ギリガンは、「個人から社会へと道徳対象が広がっていく男性モデルに対して、自己と他者が互いに関わり合い、相互依存(interdependence)から成り立つ関係性を築けるようになることを成熟と捉える、人間関係を重視する女性的な発達モデルを提唱した」(p.125)という。個人主義自己実現を志向する男性中心主義的な発達モデルによって共依存概念は成立し病理化されるのであり、従来の道徳的発達理論に対してもう一つの解を示したという点でギリガンの発想は画期的なものだっただろうと思う。

 ギリガンの主張もまた、理想的な人間関係のあり方を念頭においたものであることは確かであり、小西の「関係性、共感性、相互依存などを重視しているフェミニストたちも、ある種の自律/自立した個人として関係性を築くことを推奨しており、社会問題の有無に触れずとも、病的な依存状態には回復が求められている」(p.139)という指摘は見逃すことのできないものだ。ただ、女性の声に耳を傾けるというフェミニズム心理学の視点が果たせる役割はまだ多く残っているように思える。小西が以下で論じている、DVにおける修復的正義の実践は、その一例であると思う。

第Ⅱ部 思考 ーフェミニズムをめぐる論考 ■理論/実践 3.DVにおける分離政策のオルタナティヴのために ーリンダ・ミルズおよび修復的正義の視点 – 立命館大学生存学研究センター

 修復的正義という言葉は聞いたことがあったが、具体的な実践例を論文で読むのは初めてだった。小西によれば、DVでは被害者の生命保護のために分離政策がとられるが、被害者のなかには、強制的に別れさせられることに抵抗したり、一度シェルター等に逃れても再び加害者のもとに帰ったりする者が少なくないという。こうした分離政策の限界に対するオルタナティブな実践として、ニューヨーク大学のリンダ・ミルズがかかわるサークル・オブ・ピースでの一家族の例が紹介されており、暴力の直接的な加害者/被害者である夫/妻だけでなく、その光景を見ていた子どもたち(そのうちの一人は警察に通報したことで自責の念に駆られていた)もまた、プログラムのもとで気持ちを打ち明ける場を提供されている。

 私にとっては目から鱗だった。こんな方法もあったのか、という気持ちになり、希望が湧いた。小西も指摘しているように日本での実践には大きな壁がありそうだが、離別以外の方法があるということが分かっただけでも、私にとっては救いだった。私自身が現在切迫した状況にあるというわけではない。ただ加害/被害の二項対立は外から見るほど明確な構図にはなっていない、というのが私の少ない経験に基づく実感であり、対立構図を先鋭化することに私は望みを持てない。対立を超えようとする臨床実践や研究に触れることで、こんな変わりそうにも思えない世界にいても、希望の光を見出したいと私は思っている。