楽しい思い出、という偽り

はちみつ色のユン

はちみつ色のユン

 

  『はちみつ色のユン』は、韓国人養子である作家の半生を自伝的に描いたバンド・デシネだ。この作品が言葉にならない悲痛に溢れていることを、私は物語の半ばでようやく理解することができた。実際、この作品に登場する韓国人養子の多くが悲劇的な最期を遂げており、ユン自身も習慣的に自分の体を傷つけていたことが、物語の後半で語られる。しかしそれと同時に私が悲しく感じたのは、物語前半で見られる、状況と乖離した奇妙な心情描写だ。

 物語は、5歳のユンがソウルの路上で警官に保護される場面から始まる。ユンが路上のゴミ箱から骨付き肉を取り上げ、笑顔でかぶりつこうとするさまや、警官に〈孤児院へ行こう〉と声をかけられたユンが〈コーラ飲める?〉と尋ねる姿は、とても愛らしいし微笑ましいけれども、私は正直なところ、少し戸惑ってしまった。この物語は、屈託なく力強く生きる孤児像を描くつもりなのだろうか?

 保護された後に語られるのもやはり、無邪気で甘えん坊で腕白盛りの子どもらしさ、であるようだった。孤児院でできた友だちと戦争ごっこをするユン。ベルギーの新しい家族に迎えられ、コーラのボトルをひとりじめしながら幸せに浸るユン。学校で学食の食券を盗んだり、通知表の成績をごまかしたりして養父母の手を焼くユン。兄と一緒にポルノ雑誌に魅了され、兄と一緒に覚えた自慰で射精の早さを競うユン……。

 ときに、産みの母への思慕や養母の厳しさから愛情に飢える気持ち、戦争を思わせる悪夢を見る夜、自分と同じ韓国人養子への屈折した感情などの描写を挟みながらも、少年時代のユンはまるで、不運にもめげず、新しい家族のもとでたくましく成長する、普通の、少しやんちゃな男の子、として描かれているようにも見える。

 特に、色々な意味で印象に残ったシーンが2つある。1つ目は、新しい家族の、2人の妹と森に出かけたときのエピソードだ。

 〈引き出しには楽しい思い出もしまわれている。〉と始まるこの場面では、冒頭でいきなり次女のコラリーが〈ねぇ やっぱりやめておこうよ〉とユンに話しかける。コラリーが戒めるのは、ユンが手にしている弓のことだ。だが、〈あたし、やってもいいよ〉と言った三女のガエルの頭に、ユンは標的のリンゴを載せ、〈集中だ…映画で見たように〉と念じながら弓を引いてしまう。結果、刃のついていない矢は、ガエルの目の上に当たってアザをつくった。〈無邪気な子どもの過ち。こんなことはもう二度としないと誓った〉〈僕らは初めてのウソを森に隠した。両親へは、ガエルがつまずいて石にぶつかったと話した。醜いウソだ〉〈結局、僕らは上手にウソをつき通した。妹のアザも数日で消えてなくなった〉……私は最初、このエピソードのどこが楽しい思い出なのか、まったく理解できなかった。

 2つ目は、ポルノ雑誌に飽き足らなくなったユンが、夜中にコラリーの部屋に侵入する場面だ。〈コラリーの寝室だ…〉〈いけないこととは分かっていても、雑誌で見たものに触ってみたかった〉〈息をひそめた。興奮に手は震えていた…コラリーはすやすや眠っていた。僕は彼女の幼い乳房に触れてしまうのか〉〈ためらいは長く続かなかった。僕は掛け布団に手を差し込み、彼女の乳房にそっと手を置いた〉〈どのくらいの時間が経っただろう…明け方までずっとそうしていたかった〉……どうして眠っている少女の体を勝手に触った体験を、幸福なひとときとして、描くのか?

 〈僕にはなんの呵責もなかった、だって本当の兄妹じゃないんだもの〉〈コラリーとはとても仲よしだった。同学年で、中学からは同じクラスだったし。年を追うごとに親密度が増した。それでずっとあとになって、この一件も問題なく話すことができた〉〈僕の話を面白がった彼女はただこう言った。「あなたが十分に楽しんだならいいけど」〉……?本当に訳が分からなかった。どうして他者の身体への侵襲を思春期の思い出として語り、しかも他者の気持ちを都合よく解釈するのか?そしてコラリーがユンを想って気苦労していた逸話を並べたてた後でこのようにいう。〈実際、僕は常に兄と妹たちに守られていた。僕らは一心同体だったんだ〉

 私は途中まで、ユンが順調に、暴力や痛みに鈍い大人になっていく物語としてこの作品を読み、その筋書きに不満だった。作品の後半で白米にタバスコをかけすぎたユンが血を吐いて入院し、ユンが自身の痛みにさえ向き合い労わろうとはしてこなかったことを知るまでは。私は、自分が共感できて理解可能な物語を求めていたのであり、私自身、血を見て初めてその痛みに気づくというほどの感性しか持ち合わせていないことを思い知った。

 この作品は自伝だ。痛みを抱えて今も生きる作家にとって、すべてを鮮明に、誠実に思い出して描写することは、どれほど困難で苦しいことか。暴力的な記憶の回帰の可能性を、本人抜きに勝手に想像するなどというのは非常に傲慢なことかもしれない。ただ、状況にそぐわないと思われるような楽しさや幸福感が描かれるとき、それを単に感受性の貧しさや表現力の稚拙さとして片づけるわけにはいかないのではないか。

 幼い頃から自分が捨てられた理由を自問し、自罰的思考の迷路を彷徨い続ける日々。作品後半で明らかにされるその終わりの見えない苦しみを前にしたとき、先に挙げた妹との2つのエピソードは、どのように映るだろうか。……無知でばかで単純な子ども時代の、仲の良い妹との少々苦い思い出として、あの時は楽しかった、幸せだったと想起されることによって、かえって迷路の闇の深さは浮き彫りになるようにも思える。

 〈実際、僕は常に兄と妹たちに守られていた。僕らは一心同体だったんだ〉という、兄妹との信頼関係にすがるような思いが、闇に差す一筋の光明であったのなら、同じこのモノローグはその深い闇についても語っていることになる。

 〈出来事〉に偽りのプロットを与えること。それは、私たちが、その〈出来事〉を物語として完結させ、別の物語を生きるため、〈出来事〉の暴力を忘却するためだ。
(中略)
 決して折り合わせることのできないズレ、〈出来事〉の暴力の痕跡を疵として現在の物語のなかに書き込むこと、そこに、〈出来事〉の記憶の分有の可能性が賭けられている。

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

 

 描かれている状況からかけ離れた不可解な心情表現、楽しく幸福な思い出を語る偽りのプロットが示唆しているものは何なのか。惑わされるのでもなく、論難するのでもないやり方を、私はもう少し時間をかけて考えなくてはならないと思っている。