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読書と鑑賞の記録

楽しい思い出、という偽り:『はちみつ色のユン』

はちみつ色のユン

はちみつ色のユン

 

  『はちみつ色のユン』は、韓国人養子である作家の半生を自伝的に描いたバンド・デシネだ。この作品が言葉にならない悲痛に溢れていることを、私は物語の半ばでようやく理解することができた。実際、この作品に登場する韓国人養子の多くが悲劇的な最期を遂げており、ユン自身も習慣的に自分の体を傷つけていたことが、物語の後半で語られる。しかしそれと同時に私が悲しく感じたのは、物語前半で見られる、状況と乖離した奇妙な心情描写だ。

 物語は、5歳のユンがソウルの路上で警官に保護される場面から始まる。ユンが路上のゴミ箱から骨付き肉を取り上げ、笑顔でかぶりつこうとするさまや、警官に〈孤児院へ行こう〉と声をかけられたユンが〈コーラ飲める?〉と尋ねる姿は、とても愛らしいし微笑ましいけれども、私は正直なところ、少し戸惑ってしまった。この物語は、屈託なく力強く生きる孤児像を描くつもりなのだろうか?

 保護された後に語られるのもやはり、無邪気で甘えん坊で腕白盛りの子どもらしさ、であるようだった。孤児院でできた友だちと戦争ごっこをするユン。ベルギーの新しい家族に迎えられ、コーラのボトルをひとりじめしながら幸せに浸るユン。学校で学食の食券を盗んだり、通知表の成績をごまかしたりして養父母の手を焼くユン。兄と一緒にポルノ雑誌に魅了され、兄と一緒に覚えた自慰で射精の早さを競うユン……。

 ときに、産みの母への思慕や養母の厳しさから愛情に飢える気持ち、戦争を思わせる悪夢を見る夜、自分と同じ韓国人養子への屈折した感情などの描写を挟みながらも、少年時代のユンはまるで、不運にもめげず、新しい家族のもとでたくましく成長する、普通の、少しやんちゃな男の子、として描かれているようにも見える。

 特に、色々な意味で印象に残ったシーンが2つある。1つ目は、新しい家族の、2人の妹と森に出かけたときのエピソードだ。

 〈引き出しには楽しい思い出もしまわれている。〉と始まるこの場面では、冒頭でいきなり次女のコラリーが〈ねぇ やっぱりやめておこうよ〉とユンに話しかける。コラリーが戒めるのは、ユンが手にしている弓のことだ。だが、〈あたし、やってもいいよ〉と言った三女のガエルの頭に、ユンは標的のリンゴを載せ、〈集中だ…映画で見たように〉と念じながら弓を引いてしまう。結果、刃のついていない矢は、ガエルの目の上に当たってアザをつくった。〈無邪気な子どもの過ち。こんなことはもう二度としないと誓った〉〈僕らは初めてのウソを森に隠した。両親へは、ガエルがつまずいて石にぶつかったと話した。醜いウソだ〉〈結局、僕らは上手にウソをつき通した。妹のアザも数日で消えてなくなった〉……私は最初、このエピソードのどこが楽しい思い出なのか、まったく理解できなかった。

 2つ目は、ポルノ雑誌に飽き足らなくなったユンが、夜中にコラリーの部屋に侵入する場面だ。〈コラリーの寝室だ…〉〈いけないこととは分かっていても、雑誌で見たものに触ってみたかった〉〈息をひそめた。興奮に手は震えていた…コラリーはすやすや眠っていた。僕は彼女の幼い乳房に触れてしまうのか〉〈ためらいは長く続かなかった。僕は掛け布団に手を差し込み、彼女の乳房にそっと手を置いた〉〈どのくらいの時間が経っただろう…明け方までずっとそうしていたかった〉……どうして眠っている少女の体を勝手に触った体験を、幸福なひとときとして、描くのか?

 〈僕にはなんの呵責もなかった、だって本当の兄妹じゃないんだもの〉〈コラリーとはとても仲よしだった。同学年で、中学からは同じクラスだったし。年を追うごとに親密度が増した。それでずっとあとになって、この一件も問題なく話すことができた〉〈僕の話を面白がった彼女はただこう言った。「あなたが十分に楽しんだならいいけど」〉……?本当に訳が分からなかった。どうして他者の身体への侵襲を思春期の思い出として語り、しかも他者の気持ちを都合よく解釈するのか?そしてコラリーがユンを想って気苦労していた逸話を並べたてた後でこのようにいう。〈実際、僕は常に兄と妹たちに守られていた。僕らは一心同体だったんだ〉

 私は途中まで、ユンが順調に、暴力や痛みに鈍い大人になっていく物語としてこの作品を読み、その筋書きに不満だった。作品の後半で白米にタバスコをかけすぎたユンが血を吐いて入院し、ユンが自身の痛みにさえ向き合い労わろうとはしてこなかったことを知るまでは。私は、自分が共感できて理解可能な物語を求めていたのであり、私自身、血を見て初めてその痛みに気づくというほどの感性しか持ち合わせていないことを思い知った。

 この作品は自伝だ。痛みを抱えて今も生きる作家にとって、すべてを鮮明に、誠実に思い出して描写することは、どれほど困難で苦しいことか。暴力的な記憶の回帰の可能性を、本人抜きに勝手に想像するなどというのは非常に傲慢なことかもしれない。ただ、状況にそぐわないと思われるような楽しさや幸福感が描かれるとき、それを単に感受性の貧しさや表現力の稚拙さとして片づけるわけにはいかないのではないか。

 幼い頃から自分が捨てられた理由を自問し、自罰的思考の迷路を彷徨い続ける日々。作品後半で明らかにされるその終わりの見えない苦しみを前にしたとき、先に挙げた妹との2つのエピソードは、どのように映るだろうか。……無知でばかで単純な子ども時代の、仲の良い妹との少々苦い思い出として、あの時は楽しかった、幸せだったと想起されることによって、かえって迷路の闇の深さは浮き彫りになるようにも思える。

 〈実際、僕は常に兄と妹たちに守られていた。僕らは一心同体だったんだ〉という、兄妹との信頼関係にすがるような思いが、闇に差す一筋の光明であったのなら、同じこのモノローグはその深い闇についても語っていることになる。

 〈出来事〉に偽りのプロットを与えること。それは、私たちが、その〈出来事〉を物語として完結させ、別の物語を生きるため、〈出来事〉の暴力を忘却するためだ。
(中略)
 決して折り合わせることのできないズレ、〈出来事〉の暴力の痕跡を疵として現在の物語のなかに書き込むこと、そこに、〈出来事〉の記憶の分有の可能性が賭けられている。

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

 

 描かれている状況からかけ離れた不可解な心情表現、楽しく幸福な思い出を語る偽りのプロットが示唆しているものは何なのか。惑わされるのでもなく、論難するのでもないやり方を、私はもう少し時間をかけて考えなくてはならないと思っている。

 

*2018/10/27追記*
タイトルに書名を追加しました。

あるフェミニストの実践:『ジェンダー写真論 1991-2017』

 

ジェンダー写真論 1991-2017

ジェンダー写真論 1991-2017

 

  笠原美智子は私が尊敬するフェミニストのひとりだ。笠原が「アーティストにとって生きやすいとはとても言えないこの国」(p.10)と表現する日本は、同時に、フェミニスト女性にとって(アートの中でもとりわけ性差別的な分野である)写真を専門として学芸員を務めていくことが非常に困難な場所でもあったはずである。笠原が1991年に企画した女性セルフ・ポートレイト展は日本の美術館で初めてフェミニズムの視点を取り入れた展覧会となった。その後も東京都写真美術館を定年退職した昨年度までの約30年間、フェミニズムジェンダーの視点に基づく美術展を企画し続けてきた。

 2018年2月に刊行された笠原の著書『ジェンダー写真論 1991-2017』(以下、『ジェンダー写真論』)のカバー写真は、インドの写真家ダヤニータ・シンの大学進学に際して、その母であるノニー・シンが撮影したものである。ダヤニータ・シン(以下、ダヤニータ)は笠原が昨年度企画した「ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館」展で取り上げた作家で、笠原とほぼ同世代の女性だ。『ジェンダー写真論』では、ダヤニータの生い立ち、国立デザイン大学やニューヨークの国際写真センターでの学び、欧米雑誌が求めるステレオタイプのインドを撮るフォトジャーナリストから、自身が属する富裕層やミドル・クラスとの親密な関係をテーマとするアーティストへと転身していく過程、近年の美術館やマーケットというシステムに対抗する制作姿勢などが記されている。

 笠原は(敬意と親しみを込めて)ダヤニータはやっかいである、という。その一例が、ダヤニータ自身が作品の展示替えを行う「美術館」のシリーズだ。 

〈ファイル・ミュージアム〉はチーク材で作られた高さ一八九センチ、幅一〇九センチの手作りの折りたたみ式ポータブル構造物である。その中には一四二点もの額装された作品が入っていて、通常わたしたちが美術館で鑑賞するように、展示室ならぬ「美術館」の周りを巡って、最大で四〇点の作品を見ることができる。展示作品は縦に五点配置され、横は一列か三列か七列の組み合わせになっているので、一点一点をじっくりと鑑賞するのと同時に、隣や前後の作品が干渉し、縦に横にとシークエンスとして写真を観ることになる。展示替えもキュレーターであるダヤニータによって一四二点の収蔵品の中から不定期に行われる。収蔵作品があり、キュレーターがいて、展示替えが行われる、美術館として完結し機能しているのである。

(中略)

ダヤニータは二〇一六年までに十以上の「美術館」を作り、全体を「インドの大きな家の美術館(Museum Bhavan)」と名付けた。〈ファイル・ミュージアム〉、〈ミュージアム・オブ・チャンス〉、〈リトル・レディーズ・ミュージアム― 一九六一年から現在まで〉、〈ミュージアム・オブ・フォトグラフィー〉、〈ミュージアム・オブ・エンブレイス〉、〈ミュージアム・オブ・マシーン〉、〈ミュージアム・オブ・メン〉、〈ミュージアム・オブ・ファーニチャー〉、〈ミュージアム・オブ・シェディング〉で、〈ミュージアム・オブ・ファーニチャー〉からは壁面に展示できる〈陳列棚のミュージアム〉と〈印刷機ミュージアム〉という二つの小さな美術館が派生した。また他に、〈オフィス・ミュージアム〉、〈コーチ・ピラー〉、〈ミュージアム・オブ・インダストリアル・キッチン〉もある。(p.258-259)

 【cf. Museum Bhavan – Dayanita Singh

 通常、美術館で展覧会を行う際には、個展であっても開催数カ月前までには展示作品を決めておかないといけないらしい。おそらく予算や広報の都合で固定しなければならないのだろう。しかしダヤニータは会期中であっても、作品を途中で入れ替えて、既存の制度に抵抗するのである。

 ダヤニータはアーティストとして比較的に若い頃から評価されていた。しかし、それを可能にしたシステム――ギャラリーでの展示・販売活動から、美術館でのグループ展、国際展等への参加を経て最終的に美術館で個展を開催するという一流アーティストの辿るコース、あるいは、作品が富裕層により高額で取引されるアート・マーケットのあり方――にも正面から向き合う。「美術館」のシリーズは現在の美術館やマーケットというシステムに対し一石を投じる取り組みのひとつだ。またダヤニータはかつて、小さな写真集を手紙のように贈るというコンセプトの作品(『セント・ア・レター』)を発表していたし、近年では写真集をスーツケースに入れて世界中で売り歩いたり(〈スーツケース・ミュージアム〉)もしている。 

ダヤニータが使う、ミュージアムやキュレーター、収蔵庫などの言葉が隠喩かリアルかと問うアヴィーク・センの質問に対してダヤニータは以下のように応えている。「わたしは自分が生きている現役のアーティストだと主張したい。私を現代美術家だというなら、それは死んではいないということ。美術館やギャラリーと仕事をするたびに、物事を決めるのはキュレーターで、ここにいるわたしは死んでるのかと思うことがある。たとえ私が判断を下すことができても、展覧会の会期中、絶えず作品を変え続けることはできない。もちろん会場が離れていて物理的にそれができないことはあるけれど」。現役のキュレーターのわたしとしては反論もあるし耳の痛いことでもある。ダヤニータが一筋縄ではいかず優れているのは、美術館の現状に対して不満を募らせて単に我が儘を言って心優しきキュレーターを困らせるのではなく、「変化し続けること」をコンセプトにして作品を創り上げてキュレーターに認めさせてしまうことである。結果、ダヤニータは堂々と会期中に作品を入れ替え、付け加える。それに対してキュレーターは、基本的に作品至上主義だからこうなると手も足も出ない。優れた現代写真や現代美術はすべからく現代の批評や批判を含むものであるから、かくして美術館批判を内包する作品が、その批判を受けている当のキュレーターや美術館によって歓迎されて受け入れられ、美術館で展示されるという、かくも現代美術に相応しい状況が展開されることになる。

 ダヤニータ・シンは厄介である。しかしコンテンポラリー・アーティストにとってそれは最高の評価だろう。(p.268-269)

 私はアート業界の内部事情はよく知らないが、物議を醸したり騒動になったりして予定されていた美術作品の展示が取りやめになったというニュースを目にしたことはある。学芸員の役割はあくまで自身の専門性と意志と責任によって来場者に作品を届けることであり、美術館での展覧会はどちらかというとアーティストではなく学芸員の仕事の成果なのだろう。その前提に立ってダヤニータは従来の美術館やキュレーター(学芸員)を批判しているわけだが、「我が儘を言って」展示自体が中止となってしまっては本末転倒である。既存のシステムの中で抵抗するというダヤニータの手法に対する笠原の賛辞には、実際に作品を届ける責務を担う学芸員としての経験の重みを感じる。

 『ジェンダー写真論』に収められている文章の多く(すべてではない)は、東京都写真美術館での展覧会図録に笠原が寄せたテキストに加筆修正を施したものだ。本書の最後に配置された荒木経惟評「囚われの荒木」もそのひとつで、「荒木経惟 センチメンタルな旅 一九七一ー二〇一七ー」展に寄せたものを基にしている。

 笠原が約30年間の写真美術のキャリアを持ち、荒木とはおそらく現実の業界内での人間関係があるなかで、次のように書き切る姿勢に、私は息を呑んでしまう。

[引用者注:「荒木さんの雑誌を創ろう」という編集者、末井昭と組んだ『写真時代』について]誌面からは、面白ければなんでも良いというホモソーシャルで「アングラ」な熱が伝わってくる。しかしそもそも異性愛男性の劣情を刺激するための雑誌である。当然といえば当然とはいえ、当時の最も過激な風俗を生々しく伝えてはいても、ヌード写真としての目新しさはなく、旧態依然の男の性幻想を満載している。女性の身体を侵犯し断片化し商品とするフェティッシュな視線によって、一方的に男性の性的欲望に服従し奉仕し、最後には快楽に支配される、男にとっての都合の良い幻想の女性像である。女性崇拝と女性嫌悪は両立する。(p.406)

 

〈センチメンタルな旅〉は陽子の死を経て現在までも続く、一組の男と女が綴った写真史に類い希な写真詩である。そこには全身を写真に捧げて生と性と死を描く荒木の写真家としての価値が凝縮されている。多くの論者が荒木経惟を「エロスとタナトス」の作家と称賛する。たしかに彼の作品には、たとえ都市や花などを写していたとしてもそこに色濃く性と死の匂いが立ちこめている。しかし荒木の写真に表現される「エロスとタナトス」はあくまで「荒木」のものであり、そこに表現されるのは、「日本の」「昭和の」「男の」「異性愛の」と、幾重にも限定された「エロスとタナトス」として理解しなければならない。荒木の私写真をとおして、良くも悪くも、昭和日本の男の女性観や死生観の一端が垣間見える。(p.407)

 荒木の写真に惹かれるのは「昭和日本の男」だけでない、とか、女性でも「昭和日本の男」と地続きの感性を持っていることはある、などと反論をすることは可能だろうか。性と欲望と表象の関係について私はシンプルな答えを持ち合わせていない。ただ一方で、荒木の写真が、70年代~80年代の作り手も消費者も男性からなる出版文化(例えば『写真時代』『週刊大衆』等の雑誌や量産される写真集)において確立され、90年代以降「それがそのまま美術館に持ち込まれた」(p.403)ことを踏まえるならば、荒木の写真が少しも普遍的でないことは明らかである。

 そして荒木が活動してきた約半世紀の間、日本ではどんなことが起きていたか。「便所からの解放」を唱えた70年代前半のウーマン・リブを発端に、女性運動は性別役割分業や既存の女性表象のあり方に異議を唱えてきたし、アカデミアや行政においてもフェミニズムの興隆があり、その一成果としての法整備を契機とする女性の社会進出が徐々に促されてきた。こうした一見すると大きな変化の流れの中でも、荒木の写真は商業媒体で多くの消費者に支えられ、近年は芸術作品としても崇められながら、搾取を再生産してきた。笠原があとがきに記す、「日本社会の価値観は、わたしが仕事を始めてからこの三〇年弱の間、根本的にはちっとも変っていない」(p.411)という言葉は、荒木の長きにわたった名声と、裏表の関係にある。

 そして、私がもう一度強調したいのは、笠原がおそらく業界の狭い人間関係の中で、おそらく荒木のこれまでの仕事と人柄をよく知ったうえで、荒木に酷評を突き付けているという点である。それは私には信頼関係に基づくフェミニズムの実践であるように思われる。笠原は本書の別の箇所で、フェミニズムについて次のように言っている。

 ある人がかつてわたしに、フェミニズムとは究極的には「愛」なのではないかと語ってくれたことがある。いかに他者に寄り添って、他者についての想像力を及ぼすことができるのか。自分が今まで依って立ってきた考えや思いを一度、根本的に疑ってみて、自分のパースペクティヴとは相反する側の存在を認め、そこからもう一度考えや思いをいかに再構成することができるか。誰を中心にすることもなく誰を周縁にはじきだすこともなく、それぞれの多様さ曖昧さを引き受けながらいかに理解し合えるか。フェミニズムとは究極的にはそうした高度な愛の行為なのではないかというのである。(p.230)

 

 フェミニズムジェンダーも男と女の対立概念ではない。それは共生の思想であり、あらゆるセクシュアリティ、人種、民族、年齢、階級の人々が、お互いとお互いがより良く共に在るための、お互いがお互いをより理解するための、お互いがお互いをより愛するための、常に現在進行形の、たゆまぬプロセス上にある行為なのではないかと思う。(p.231)

 相手を知っているからこその諫言などというのは、甘い発想だろうか。しかし私自身は、相手に伝わるという信頼関係の手応えなしに前進することは想像できないし、また同時に信頼関係のある相手の不正義を問いただすしんどさ(冷や汗、声の震え、終わった後の極度の疲労感)は経験がある。

 「その愛すべきキャラクターと繊細で誠実な人柄、サービス精神旺盛なパフォーマンス、あまりにてらいなく、自分の弱さ、情けなさ、寂しさなど、こちらが心配になってしまうほど、おおっぴらに晒す姿勢に、日本の男のステレオタイプを見ることは困難である。」(p.406-407)と書いたその手で、「しかし荒木が描く「女」にはまぎれもなく、女性差別的でミソジニックな、ある年代以上の日本の男の典型的な視線が存在する。」(p.407)と糾弾することの困難さは、フェミニズムの実践の苦しみでもある。

 

*2018/10/27追記*
タイトルに書名を追加しました。

微笑みの害悪:『情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味』

情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味

情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味

 

私はこの本に出てくる「無数の名もなき情動」という言葉がとても気に入っている。情動は、喜怒哀楽のように呼び名があり自分でも意識することができるものだけではない。何も考えずにぼーっとしている時も、理性的に判断を下している時も、何らかの情動が生じている。「何か違和感がある」とか「なんだかもやもやする」というのも、りっぱな情動と言えるだろう。「はじめに」で著者は次のように説明している。

情動は私たちがその名前をよく知っているものだけではない。数えきれないほど多くの名もなき情動たちが存在する。私たちはそのような情動をすべて情動として認めるように、情動の見方を少し改める必要がある。身体的反応を通して世界の価値的なあり方を直観的に感じ取る心の状態は、すべて情動だと見なければならない、そのように情動の見方を少し変えれば、情動に流されずに冷静にものごとに対処すると言われるときも、じつはそこでは、情動が生じていることになる。たしかにそこでは、誤った情動は生じていないだろうが、正しい情動が生じているのである。(p.ⅹ)

情動が人間の生の基本であるならば、情動を蔑ろにしたり軽んじることは避けなければならないように思われる。むしろ「なぜ今、苛々しているのか?」とか「あの時、何も感じなかったのはどうしてか?」などと問うことは、情動に基づいてよりよく考え、生きていくためには必要なことであるように感じる。

この本は第Ⅰ部が主に理論、第Ⅱ、Ⅲ部が実例を交えた議論となっている。どの章も私にとってはすごく興味深くて、夢中になって読んだ。

特に、第Ⅲ部第7章「感情労働」は、自分の情動を押し殺して働かなければならない人にとっては非常に切実な話である。例えば接客業で、最初は客に対して常に笑顔で接することに苦痛を感じていても、慣れてくると苦痛を感じず自然と笑顔になり、喜ばしくさえ感じるようになるということがある。しかし、自然に、自発的に笑顔になれるのなら問題ないかといえば、そうではない、というのがこの章での議論の中心である。

感情労働が無理なく自然に行えるようになるというのは、一見、ストレスや苦痛から店員を解放するようにみえる。しかしじっさいには、無理して感情労働を行うことよりも、さらに深く店員の尊厳を傷つけるのである。それは一時的に尊厳を傷つけるのではなく、半永久的に傷つける。それはようするに隷属性の内面化なのだ。こうして感情労働は、無理やり情動を強いられるのであれ、自発的にそれが湧いてくるのであれ、ともかく人間の尊厳を傷つけるという点できわめて有害なのである。(p.179)

さらに、「隷属性の内面化」よりも重大な問題として、感情労働は、自分が求められている情動について顧みないようにしてしまうという点が挙げられている。

感情労働のもっとも根本的な害は、それに求められる情動の明確化を妨げる点にある。求められる情動が自然に湧いてくるようになればなるほど、その害にどっぷり浸かってしまうことになる。そこから脱出するには、抑圧された違和感や嫌悪感を探り出し、それを手がかりにして要求される情動を明確化しなければならない。つまり、要求される情動が真正性の欠如した欺瞞的な情動であることを暴き出さなければならない。そして自分が本来抱くべき情動、自分の置かれた価値的状況に本当の意味で相応しい情動を抱くようにしなければならない。そのような適切な情動を抱くようになること以外に、感情労働の根本的な害から脱出する道はない。(p.188)

接客業だけではないだろう。上司の冗談に思わず笑ってしまったり、先輩の質問に笑顔で答えてしまったりする。冗談は胸糞悪いものであったかもしれないし、不快感を示すべきだったかもしれない。質問は失礼な内容で、本当は怒ってもよかったかもしれない。でも、あまりにも自然に笑顔が出てしまい、自分が笑っていたことにすら気づけなければ、「本当に笑っていてよかったのだろうか?」と問うことにはたどり着けない。

この章を読みながら思い出したことがある。以前あるイベントで登壇した自己啓発系の講演者が、「女性は本人が意識しなくても微笑んでいるようにみえるが、男性は何もしていないと不機嫌そうに見える。男性は意識的に笑顔を作りましょう」という主旨の話をしていた。もしそうなら、規範的なジェンダー観は女に微笑みを強制しているのかもしれないし、女は常に感情労働させられているのかもしれない。

もちろん、これだけだとかなり雑な主張であるが、感情労働に従事するのは女性のほうが多いというのは事実であるし、女の笑顔はどう考えても称揚されすぎである。「女は愛嬌」という忌々しい呪いから、いったいどれだけの人が自由になれているといえるだろうか。私はあまり自信がない。いつも自らの情動(笑顔など)を商品やサービスのように扱い、他人との取引を円滑に進めるために利用しているのだとしたら、毎日が感情労働だ。そして感情労働ジェンダー化していることは、無視できない現実であると思う。

強面の上司に書類を手渡しするのに、少し微笑みかけてしまう、楽しいことがあるわけではないのに。答えにくいことを聞かれて言葉に詰まり、当座しのぎに笑ってしまう、プライベートについて詮索してくるほうが悪いのに。いつも何があっても無意識のうちに他人のご機嫌を伺っていることは、本来の情動を蔑ろにしていることにもなる。

笑顔は多くの場合、歓迎されポジティブに評価される。しかしながら、実際には適切な情動を覆い隠すこともあり、害悪にもなりうる。笑顔を無条件に称賛することは自分や他人を不幸にすることになるだろうし、まして強制することはあってはならないだろう。

一方で、自分や他人の言動に違和感や嫌悪感を抱くには、時間がかかることもある。しばらくたってから、やっぱり嫌だったな、あれはおかしい、と思うこともある。なぜその場で抗議しなかったのだろうと、ひどく後悔して自分を責めたくなることもある。しかしそのようにして自分の情動について顧みることが、自己欺瞞をしりぞけ、少しでもまともな情動を抱いて生きていくことにつながると思えば、少し励まされるような気もする。

 

*2018/10/27追記*
タイトルに書名を追加しました。

人口政策としての「少子化対策」:『文科省/高校 「妊活」教材の嘘』

 

文科省/高校 「妊活」教材の嘘

文科省/高校 「妊活」教材の嘘

 

 2015年夏、高校保健体育の副教材(平成27年度版)に掲載された「女性の妊娠のしやすさの年齢による変化グラフ」に誤りがあることが明らかになった。昨年刊行された『文科省/高校「妊活」教材の嘘』は、グラフの誤りをはじめとする副教材内の不適切な記述に対する検証と、教育現場等に介入する国の少子化対策のあり方自体を問う論考を収めていて、本件の論点を整理するのに有用な書籍であると思う。特に副教材における多様性の観点の欠如や少子化対策の根拠となるデータの問題点、人口政策の歴史的経緯と変遷など、グラフの件だけでなく副教材の根底にある考え方を問い直していて、勉強になった。

文章は全体的に、一般的な学術書よりも分かりやすく書かれていたと思う。そして表紙の「妊活」という文字のおどろおどろしいフォントが、この本の問題意識を表しているような気がする。今回は私の個人的な関心から、主に第7章(大橋由香子「人口政策の連続と非連続――リプロダクティブ・ヘルス/ライツの不在」)と第8章(皆川満寿美「「結婚支援」と少子化対策――露骨な人口増加政策はいかにして現れるか」)についてまとめてみたい。*1

半世紀以上にわたる人口政策の経緯を振り返るにあたり、大橋は1960年代から1994年のカイロ国際人口・開発会議までの世界的な流れを以下のように概観している。

一九六〇年代から、世界の人口の急激な増加が問題となり、国連は一九七四年を国際人口年と定め、第三回世界人口会議(一九七四年、ブカレスト)では、人口増加率を下げる各国の目標値が掲げられた。そして、「人口爆発」というセンセーショナルな言葉とともに、開発途上国では、半ば強制的な不妊手術が行われたり、先進国では認可されていない危険な避妊薬が使われ、健康被害と人権侵害を引き起こした。

一方、人口増加政策やキリスト教など宗教の影響から、中絶を禁止する国も存在している。中絶を施術したことで牢屋に入れられたり、非合法の闇中絶によって命の危険にさらされたり、ここでも女性の健康と権利が脅かされていた。

こうした人口政策を進める国際機関や政府代表が集まる第四回国際人口会議(一九八四年、メキシコシティ)に対抗して、世界各地の女性グループがオランダで女と健康国際会議を開いた。「人口管理はいらない、女が決める」をスローガンに、リプロダクティブ・フリーダム/ライツを主張した。

一〇年後の一九九四年、国連の国際人口・開発会議(カイロ)では、従来の強圧的な人口抑制政策への反省から、リプロダクティブ・ヘルス/ライツを明記した「行動計画」が採択された。これは、人口政策におけるパラダイム転換*2である。(大橋、p.163-164)*3

 そして、「一九九五年ごろから世界的にも日本国内でも、産むか産まないかを決めるのは女性の人権だという認識が、粘り強い女性運動の働きかけによってようやく広まってきた」(大橋、p.164-165)という。大橋は日本での具体的事例として、リプロダクティブ・ヘルス/ライツが1996年の男女共同参画ビジョンに明記されたことや、優生保護法から母体保護法への改定(1996年)の背景に「一連の国際会議におけるリプロダクティブ・ヘルス/ライツの議論も影響している」点などを挙げている(大橋、p.165)。

皆川もほぼ同時期の日本国内の動きについて、大橋と同様の見解を示す。皆川は、1997年の人口問題審議会による報告書『少子化に関する基本的考え方について――人口減少社会、未来への責任と選択』に関して、次のように説明している。

この『少子化に関する基本的考え方について』では、「少子化の影響」について「概ねマイナスな影響」とし、政府として対応の必要性を明示した。しかしその姿勢は、「個人が望む結婚や出産を妨げる要因を取り除くことができれば、それは個人にとっては当然望ましいし、その結果、著しい人口減少社会になることを避けることが期待されるという意味で社会にとっても望ましい」というものであり、「このような観点から、少子化の影響への対応とともに、少子化の要因への対応についても行っていくべきである」とされたのである。その内容は、「固定的な男女の役割分業や雇用慣行を是正し、子育て支援の効果的な推進を図る」ということだったし、以下のような「少子化の要因への対応に当たっての留意事項」四点が書き込まれたのでもあった。*4

 1.子どもを持つ意志のない者、子どもを産みたくても産めない者を心理的に追いつめるようなことがあってはならないこと。
 2.国民のあらゆる層によって論じられるべきであること。
 3.文化的社会的性別(ジェンダー)による偏りについての正確な認識に立ち、そのような偏向が生じないようにすること。例えば、女性は当然家庭にいるべき存在といった認識に立たないこと。
 4.優生学的見地に立って人口を論じてはならないこと。

 そして、この報告書は、「子どもは、次代の社会の担い手となるという意味で社会的な存在であることを認識し、また、高齢者の扶養が公的年金制度により社会化され、介護については公的介護保険制度の導入により社会的な支援を深めようとしている状況も考慮すれば、子どもを育てることを私的な責任(家族の責任)としてだけ捉えるのではなく、社会的な責任である、との考え方をより深めるべきである」と述べていたことにも留意したい。(皆川、p.195-196)

さらに皆川は、人口問題審議会報告書や男女共同参画社会基本法(1999年成立)は「自社さ政権の成果である」*5と述べたうえで、「こうした成果の前段として、カイロ会議で結実するリプロダクティブ・ヘルス/ライツの議論、北京会議(第4回世界女性会議)「行動綱領」などの蓄積、運動の高まりがあった」とし、「人口問題審議会報告書、男女共同参画社会基本法は、これらを、日本の政治が受け止めたものである」と評価する。(皆川、p.196)

各国際会議の動向に応えるように、日本でも1990年代後半には、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの観点を踏まえた議論が行われ、政治的な成果を上げつつあったようである。しかし数年後にはバックラッシュともいえる動き、すなわち少子化社会対策基本法の成立(2003年)と5年ごとの少子化社会対策大綱の策定という流れに逆戻りすることになる。大橋は少子化社会対策基本法について以下のように説明する。

法律の前文では、少子化の進展は「深刻かつ多大な影響をもたらす。我らは、紛れもなく、有史以来の未曾有の事態に直面」し、「我らに残された時間は、極めて少ない」と危機感を煽る。また、「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し」「新たな一歩を踏み出すことは、我らに課せられている喫緊の課題である」と勇ましい。戦争中の一九四一年に制定された人口政策確立要綱(後述)と、どことなく文体や雰囲気が似ている。

第六条は「国民の責務」として「国民は、家庭や子育てに夢を持ち、かつ安心して子どもを生み、育てることができる社会の実現に資するよう努めるものとする」と規定する。この法律の国会審議においても、夢を持つことが責務になることを疑問視する意見もあった。(大橋、p.165-166)

あまりの不気味さに鳥肌が立ってしまうような条文である。なお大橋は戦中の人口政策確立要綱について、『写真週報』218号(1942年4月29日号)に掲載された、人口政策確立要綱の内容を国民に分かりやすく紹介する記事「これからの結婚はこのやうに」を紹介している。大橋によればその記事には、「大東亜の建設という大事業をやり遂げるには何といってもまず人です。強い、有能な人が将来ますます必要なのです。その人を殖やすには先決問題として結婚を促進しなければなりません。(後略)」*6(大橋、p.172)といった文章が掲載されている。

話を現代に戻すと、少子化社会対策基本法成立の翌年である2004年には、法律に基づき1回目の少子化社会対策大綱が閣議決定されたが、その内容について皆川は次のように指摘している。

二〇〇四年六月に閣議決定された最初の「大綱」は、全体としては(仕事と子育ての)「両立支援」的な色彩が強かったといえるものの、「三つの視点」の(3)として、「子育ての新たな支え合いと連帯――家族のきずなと地域のきずな」が入り、「職場優先の風潮などから子どもに対し時間的・精神的に十分向き合うことができていない親、無関心や放任といった極端な養育態度の親などの問題が指摘されている」「人々が自由や気楽さを望むあまり、家庭を築くことや生命を継承していくことの大切さへの意識が失われつつあるとの指摘もある」などといった記述が行われた。*7人口問題審議会報告書への言及は一切なく、同報告書が強調した四点にかかわる記述も見られない。(皆川、p.198)

先ほどの人口問題審議会による報告書を改めて読み直し、両者を比較すると、その変容ぶりに驚く。第1回の「大綱」は、1990年代後半までの成果を顧みない、反動的な内容であったといえるだろう。

「大綱」はその後、約5年おきに策定されており、第2回「大綱」は、「小渕優子内閣府特命担当大臣少子化対策)(当時)のもと策定作業が始まったが、その途中で政権交代し、その作業は民主党(当時)を中心とする連立政権に引き継がれた。閣僚としてこれを担当したのは、福島瑞穂参議院議員で、二〇一〇年一月、策定された。」(皆川、p.198)

皆川も指摘するように、この第2回「大綱」には、「結婚や出産は個人の決定に基づくものであることは言うまでもありません。個人の希望する結婚、出産、子育てを実現するという観点から、子どもを生み育てることに夢を持てる社会を目指します。」「安心して妊娠・出産できる家庭、地域、社会をつくり、生まれてくる子どもたちを歓迎できるよう、妊婦健診や周産期医療など、安心・安全なお産ができる環境整備や支援を進めるとともに、生涯を通じた女性の健康支援(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)を図ります。」*8などと記され、リプロダクティブ・ヘルス/ライツに言及するものとなっている。

しかし、さらにそのあとの政権交代後に作業が進められた直近の第3回「大綱」は、その内容から見て第2回大綱を踏襲するものとはいえない。この「大綱」では、結婚支援や妊娠・出産に関する教育の充実化が盛り込まれることとなった。皆川も言及しているように、重点課題として「(2)若い年齢での結婚・出産の希望が実現できる環境を整備する。 」「(3)多子世帯へ一層の配慮を行い、3人以上子供が持てる環境を整備する。」*9などが掲げられており、最初の「大綱」と比べてもより踏み込んだ、早期の結婚や出産を促す内容となっている。問題となった副教材も、この「大綱」を根拠としているものである。

また、3番目の「大綱」には盛り込まれなかった様々な動きについても、皆川は指摘している。

もちろん、この大綱は、数値目標に合計特殊出生率や二〇代での婚姻率(未婚率の減少)を掲げたりはしなかった。議論はあったが、結局掲げなかったのである。それは、二〇一五年秋に打ち出された「ニッポン一億総活躍プラン」における「新三本の矢」の第二である「夢をつむぐ子育て支援」のいう「希望出生率一・八」を待たねばならなかった。しかしながら、「教育」として「妊娠・出産に関する医学的・科学的に正しい知識についての理解の割合」を三四%(二〇〇九年)から七〇%(二〇二〇年)とし、「結婚」については「結婚希望実現指標」なるものが考案されており、現状六八%(二〇一〇年)から目標八〇%(二〇二〇年)と掲げられている。(皆川、p.207)

結婚や出産に関して(あくまで「希望」と冠しながらも)国が数値目標を掲げるというのは、個人の選択とその背後にある多様性を蔑ろにする態度であると思う。また、2009年の「妊娠・出産に関する医学的・科学的に正しい知識についての理解の割合」が三四%とあるが、この数値の根拠となる「スターティング・ファミリーズ調査」については田中が「その質があまりにも低い。日本社会の姿を知るのに適切なデータではない。」(田中、p.155)と結論づけており、論外である。*10

ここまで見てきたように、1990年代後半には少子化対策の議論において踏まえられていたリプロダクティブ・ヘルス/ライツの観点は、2000年代前半の少子化社会対策基本法と第1回「大綱」ではほぼ顧みられず、民主党(当時)を中心とする連立政権下で一時息を吹き返したものの、直近の「大綱」ではほとんど跡形もなく消えてしまっている。

今回は主に報告書や大綱などの文書を中心にまとめたが、実際の運用状況はどうだったのかについても、検証が必要であると思う。少子化社会対策基本法だけでなく男女共同参画社会基本法についても、ミクロな視点での運用の実態を明らかにする調査や研究があれば、見てみたいと思った。

なお、現在の少子化対策のあり方については「戦前回帰」と危惧する声をよく聞く。非常に興味深いと感じるし、危機感を共有したいと思う。ただ私は今のところ、戦前・戦中との類似点についてはもう少し慎重に考えてみたいと思っているので、ここではあまり言及しないでおく。

 

*2018/10/27追記*
タイトルに書名を追加しました。

*1:以下では書籍の文章を原則的にそのまま引用するが、執筆者がハーバード方式で記している参考文献については、その方式を取らず、この注釈で記すことにする。

*2:原文では「転換」に「シフト」というふりがなが付されている

*3:以下、丸カッコ内の(名前、ページ番号)という表記は、それぞれ執筆者名、『文科省/高校「妊活」教材の嘘』での掲載ページを指す。

*4:人口問題審議会、1997年『少子化に関する基本的考えについて――人口減少社会、未来への責任と選択』http://www1.mhlw.go.jp/shingi/s1027-1.html

*5:皆川は「人口問題審議会でこの報告書のための議論が行われていた当時は、自社さ政権であった。総理大臣は自民党の故橋本龍太郎であり、連立を解消した後は、同じく橋本、故小渕恵三と続いた。この時期に、男女共同参画社会基本法の立法のための作業が進められており、小渕政権時の一九九九年に、同法が成立している。」(p.196)と書いている。

*6:ここでは大橋が現代仮名遣いにした文章を使用している

*7:少子化社会対策大綱」内閣府、2004年http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/law/t_mokuji.html

*8:「子ども・子育てビジョン~子どもの笑顔があふれる社会のために~」内閣府、2010年http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/family/vision/index.html

*9:少子化社会対策大綱~結婚、妊娠、子供・子育てに温かい社会の実現をめざして~」内閣府、2015年http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/law/taikou2.html

*10:詳細は第6章(田中重人「日本人は妊娠・出産の知識レベルが低いのか?――少子化社会対策大綱の根拠の検討」)を参照。

生理介護と子宮摘出:『新版 私は女』

性と生殖に関する権利をめぐる議論は女性運動史・フェミニズムにおける重要な論点のひとつで、しかも現在進行形の問題である。

2017年11月に旧優生保護法(1948~96年)下で行われた障害者の強制不妊手術に関する資料の発見について各メディアが報じ、10代女性が「月経の始末もできない」という理由により対象になっていたことなどが明らかになった*1。同年12月には宮城県内の60代の女性が旧優生保護法に基づき、知的障害を理由に不妊手術を強制されたのは憲法違反だとして、国に損害賠償を求めて2018年1月に仙台地裁に提訴する旨を各メディアが報じた*2

こうした報道を目にしていたのと同じ時期に、私は女性障害者が自身の性と生殖について記した本の存在を知った*3。今回はその本を紹介しながら、考えたことをまとめたいと思う。

『新版 私は女』は、1984年に『私は女』として刊行された「私は女<1983>」に、11年後の「私は女<1994>」を加え、1995年に新版として刊行された書籍である。「私は女<1983>」は、1983年4月から9月にかけて、編者の岸田と金が重度女性障害者から話を聞いた記録や書簡、および自らもそれぞれ障害を持つ岸田と金の文章から構成されている。なお、今回は入手のしやすさから『新版 私は女』のほうを参照するが、これから紹介するのはすべて「私は女<1983>」の文章である(今回は、11年後の「私は女<1994>」には触れていない)。

岸田のあとがきによれば、岸田と金は、岸田が当時参加していたグループの機関紙に書いた「子宮とのつきあい」という文章を持って、各地の重度女性障害者を訪ねたという。この文章には「典型的な重度女性障害者の子宮摘出の問題」(p.269 *4)として、岸田の知人であるNさんの例が記されている。岸田によれば、岸田やNさんを含む重度女性障害者の多くは「親からも、男性や社会からも、女性として生きることを否定され」(p.269-270)「性に対してすごく憧れたり、全く絶望してあきらめたりする」(p.270)。岸田の問題意識が特に表れていると私が感じた箇所を以下に引用する。

そして親などが歳をとって、体力的に子供の介護に自信がなくなってくると、安易に「おまえは自分の事もでけへんし、結婚などもでけへんねんから、毎月こんなしんどい生理なんか、ないようにしてまおや。あったってしょうないやろ。おまえがひとりになったときも、ちょっとでも他人に迷惑かけんですむやろ」などと親からいわれて、本人も「生理があると介護者もしんどがるし、街には私にも使えるトイレがないから、生理の日は家から外にも出られへんし、他人に″ありがとう″とばっかりいわなあかんしんどさや、介護者さがしのしんどさのことを考えたら、生理なんてないほうがええんや。子宮なんかとってしまおう。そうしたほうが少しでも楽に生きれるんや」と思い込まされてしまうのです。

差別や偏見は、教育や仕事や生活などを奪うだけのものでなく、障害者の場合、簡単に身体の一部をとられたり、優生保護法のもとで殺されたりするのです。(p.270)

重度女性障害者の日常生活のなかで、子宮は生理介護という厄介事を生み出すものとして、周囲から冷たい目で見られ、苦言を呈される。そして当事者も他人の顔色に敏感に反応し、周囲の認識を内面化していく様子が岸田の文章では記されている。

周囲に「あったってしょうないやろ。」と言われ、当事者も「子宮なんかとってしまおう。」と思い込まされてしまう。その前提として、女性障害者の性と生殖の権利が認められていないという現実がある。そもそも性と生殖に関する権利は、この文章が書かれた1980年代当時においても、そして2018年現在においても、障害の有無にかかわらず女性一般に十分に認められているとは言えそうにない状況ではあるが、特にこの本で語られる当時の重度女性障害者にとって事態は一層深刻で、複雑である。普段この現実は蓋をされ、見ないふりをされていたことが、次の文章からも読み取れる。

話をNさんのことに戻しますが、女性として生きることを否定されてきた彼女は、セックスがどんなものなのか、正しい知識も与えられてこなかったし、まして体験などあるはずがありません。ただ単純なあこがれから、介護者の男性とセックス的な問題を起こしてしまいました。娘がセックスのことなんか考えているとは、思いもしたくないし避けてきたNさんのお母さんは、この事件が引きがねになって倒れてしまわれて、お母さん自身も障害者になって、Nさんの介護ができなくなってしまいました。

Nさんは仕方なく、山奥の施設という箱の中で生きていくことになり、二年以上が過ぎました。(p.270-271)

その後Nさんは一年の大半を施設で過ごし、帰省できるのはお盆と年末年始のみという生活を送る。施設でもNさんは、子宮摘出を促される。

そして、ある寮母さんからは、家に帰るとき「あれ、ないようにしといでや。今度もどるときまでに。K子ちゃんはえええ子やから、このあいだ摘ってきやったのに。あんたはあほやなあ」と、子宮を摘ることがまるであたりまえのように強制されるそうです。そしていまは「いやや!」とだけしかいえないNさんに「おまえは家に帰っても、いろいろしゃべるからあかん」といわれる毎日だそうです。(p.271-272)

岸田は自身についても「毎月の生理介護のしんどさとつきあい、子宮ともつきあっています。」(p.272)と記しており、こうした問題意識をもって各地の重度女性障害者を訪ねたことがうかがえる。ここまでは岸田の文章を中心に紹介してきたが、岸田と金が訪ねた他の重度女性障害者の話も紹介したい。

鈴木利子の「Are you Ready?」と題された岸田と金との対談では、ベテスダという成人施設の中で、鈴木が子宮摘出の決断へと追い込まれていった様子が語られている。

やっぱり私は、このままずーっと、ここで生きてかなきゃなんないんだろうな。ほれたはれたなんて別世界のことだと。ここ以外、行き場がないと思ったら、こんなしんどい生理なんか、あっても仕方ないと思った。関係ないと思った。ここから出られないんなら、今までの健全者の女の子のもつような、夢とかあこがれとか、結婚とかウェディングドレスとかを、子宮摘出することで断ち切ろうと思った。手術をすることで、自分は障害者として、ここでずーっと生きていくんだということを、自分に言い聞かせようと思った。

私がベテスダにはいって二年ぐらいのあいだにも何人か亡くなっているわけでしょう。そのたんびにいわれることばは「死んでやっとこのひとは幸せになりました。死んではじめて障害の苦しみから自由になりました」って。 親もひきとりに来ないもん。そういうの見てきてるじゃない?自分もそうなるんじゃないかと思った。(p.32-33)

鈴木が手術を決断し、親に伝えたところ「親は私が十六のときから「摘れ」っていってたからね。まずカネの心配してた(笑)。」(p.33)という。鈴木は1983年時点で35歳で、 手術を受けたのは、鈴木によれば「はたちのとき」、すなわち1968年前後ということになる。

鈴木の受けた手術はかなり杜撰だったようで、「子宮をとったのか卵巣をとったのか、卵巣をとったのだとしたら、片っぽなのか両方なのか、本人にもわかってない(笑)いまだにわかんないの。」(p.33)と言っているほか、手術したのは内科医で子宮摘出の経験はなく、術後に内臓が膿んで中から糸が次々と出てくるため、「どうなってんだ、いったい何針縫ったんだ」と医者に尋ねたところ「わかんない」と言われたこと(p.35)など、あまりにもひどい話が複数紹介されている。

鈴木の語りからは、たとえ最終的には自分の意思であったとしても、周囲の視線と言葉に追い込まれるように手術を決断したこと、そして手術後も施設内で彼女の気持ちは蔑ろにされていたことが分かる。

摘出手術をしたあとで、何が悲しかったって、手術したこと自体悲しかったけど、手術のあと、寮長や職員に「えらいわねえ」っていわれたの。寮長も職員も、おんなじ女なのに、私の気持ちなんか、なーんにもわかんないくせに、私がどんな思いで手術したのかもわかんないくせに「えらいわねえ」っていわれたのがすごくくやしくて、悲しかった。(p.37)  

この本では、生理介護と子宮摘出にまつわる話の他にも、女性障害者の性暴力被害や結婚後のDV、子どもを産み育てる経験、障害者運動の中で女性が周縁に置かれていた状況などの様々な事柄が語られている。今回紹介したのは岸と鈴木の文章のみだったが、この本には21名の女性障害者の言葉が収められている。当然ながら、障害とひとことで言っても、脳性まひ、ポリオ、進行性筋ジストロフィーなど多様であるし、同じ障害名でも程度や生活のしかたは様々であり、さらにこの本に登場しない障害は数え切れないほどある。

障害の多様さを念頭に置いたうえで、女性学と障害学の歴史記述でもあまり言及されないように思われる重度女性障害者の置かれてきた状況と取り組みを整理し、顧みる必要性を感じたし、性と生殖に関する権利をめぐる議論について考えるにあたっても、この本で記されていたことを位置づけていけたらと思う。

  【参考文献】 岸田美智子、金満里 編『新版 私は女』1995年、長征社

 

※この投稿は以前に別ブログで書いた文章を転載したものです。

 

*2018/10/27追記*
タイトルに書名を追加しました。

*1:毎日新聞の報道「障害者の強制不妊手術 審査経緯明らかに 検診録など発見」2017年11月16日 21時41分(最終更新 11月16日 23時11分)を参照した。

*2:日本経済新聞の報道「不妊手術強制は「憲法違反」 旧優生保護法で初提訴へ」2017/12/3 17:18を参照した。

*3:女性障害者の本については立命館大学の生存学研究センターのウェブサイト  「arsvi.com」内に「人生半ばの女性の本―「障害関係」・3―」として紹介されている。

*4:以下、丸カッコ内ページ番号は『新版 私は女』のページ番号を表す 。

2017年の振り返り&2018年の目標

昨年は美術展にたくさん行ったり、美術展の関連イベントに参加したり、東大のクィア理論講座に通ったり、AMSEAの講義を聴講したり…と私にしてはかなり活動的に過ごせたと思います。自分で専門書を漁って読む面白さや、学会に参加して多様な研究分野の存在を知る楽しさも覚えました。

上記のような活動?を通して感じたのは、日本のアート界隈ではフェミニズムに対する無知と嫌悪が非常に根強いということです(分野によってもその程度の差があるようで、私が見聞きした範囲では、建築や写真など女性が少ない分野は特に大変そうでした)。もちろん芸術だけでなくあらゆる所でフェミニズムの仕事は残っていそうに思えます。個人的には政治理論や政治史も気になっています。とりとめもなく書きましたが、昨年は以上のようなことをぼんやり考えて過ごしました。

★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

今年の目標は…

1. リサーチ力を高める:ブックリストに従うだけでは不十分で、自分で探そうとしないと出会えない情報も多くあると気づきました。

2. テーマを決めて読書する:しばらくは日本のフェミニズムの歴史を読み直したいと考えています。壮大すぎて何年かかるか分かりません。

3. 考えたことを文章に残す:すぐ忘れるからです。

やりたいことがたくさんあるのですが、よく考えたら1月〜5月は仕事の繁忙期なので、健康を損ねない程度に頑張ろうと思います。

★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

最後に、このブログについてですが、私はまとまった文章を書くのがかなり久々なので、読みづらい箇所が多々あると思います。読書量が少ないために言葉の用例や歴史性に疎く、語彙も貧弱だと自分では認識しています。今は自分の文章がすごく雑だなと感じているのですが、少しずつでも丁寧に言葉を選んでいけたらと思っています。

よろしくお願いします。

 

※この投稿は以前に別ブログで書いた文章を転載したものです。